部屋
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- 2020年10月9日
- 読了時間: 3分
更新日:2020年10月10日

僕が何故あの〈部屋〉にいたのかは憶えていない。憶えていることは、真っ暗な闇を落ちてゆく感覚だけだ。気がついた時には六枚の堅牢なコンクリートの板に囲まれて、僕の人生は完全な立方体に定義されていた。
その〈部屋〉に来て最初の十八年、僕は魔法の研究に没頭した。特に理由はないけれど、他にすることもなかったから。もちろん、魔法と言ったってたいしたものじゃない。コンパスとチョークで魔法陣を描いては、適当なものを出現させる。なんてことはない。初等幾何学のちょっとした応用。面白いとさえ思えない。そうやって時間だけがとめどなく流れていった。
ところがある日、〈部屋〉の退屈に耐えかねて、僕は梯子と先端に輪っかのついたロープを出現させる魔法陣を描くアイデアを閃いた。このロープに首を引っ掛けて自分を吊るすというのは全く突然の思いつきだったけれど、思いついてしまえばそれはとても自然なことに思えた。ここより他の場所に行けるならなんでもよかった。そこにはきっと僕と同じ解答に辿り着いた僕の仲間が沢山いるのだろうから。
壁に描かれた魔法陣から梯子が飛び出し、次にロープが姿を現し始めたころ、異変が起こった。なんということだろう、ロープの出現は半分までで止まってしまって、そいつは壁に張りついたままなんだ。茫漠とした気分で魔法陣を描いていた僕は呪文の一部を間違えてしまったらしい。この完全な〈部屋〉に来てから僕がミスを犯すのは初めてだったし、僕が不完全なものを眼にするのも初めてだった。その半端で不完全なロープを見ていたらどうも滑稽で仕方がなかったよ。僕は痙攣したようにのたうちまわって笑った。
笑って、笑って、笑いながら、眼からは涙が流れていた。多分、あの時が生まれて初めての笑いだったのだと思う。
そのロープを思い切り引っ張ってみようと思いつくのに時間はかからなかった。それは悪戯としては、まず最高に違いなかった。最初、指でつまんで軽く引っ張ってみて驚いた。〈部屋〉が揺れているのだもの。完全なはずの〈部屋〉が! 思い切って両手でロープをつかんで力いっぱい引っ張った。
グラッと揺れて、瞬間、世界が裏返った。
その時は呆然としたけれど、驚くことじゃない。外側が内側に、内側が外側になっただけ。笑ってしまうほどシンプルなトリックだった。
つまり僕は今、たった一人で〈外側〉にいるんだ。ここはとても広い場所で、空を見上げていると落っこちてしまいそうな気分になる。考えること、感じることのできる全てがすっぽり収まってしまうほど広いんだ。それに僕が一番驚いたのは、この世界には百億もの〈部屋〉があって、この空の下を、この広大で完全な空の下を、僕があの〈部屋〉に残してきた厖大な魔法陣そっくりに醜い幾何学模様で埋め尽くしていることだった。





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